脱力亭日乗

意識が高いことは何もありません。

とりとめのない話をする

なんとなく気づいていたけど、最近会話の中で、暗喩隠喩が伝わらない、と思うことが何度か目にするようになった。

遜りや謙遜が通じない。自分を下にして相手を立てることが通じない。当然嫌味も慇懃無礼も通じない。
それまでも鈍いというか、皮肉な言葉も良く受け止めることができる人はいたし、それは幸せなことだと思ったものだが、そうではなくて、こんなにも強く、拒絶に近いような言葉で、はっきりとNOと言わないと伝わらないようになってしまったんだな、と悲しみにも似た気持ちを抱く。
誰に対してではなく、名も知らない、目に触れただけの、通りすがりの人たちの言葉だ。別に関係ない人の言葉だ、そういえばそれまでのことなのだが。

たとえば、相手がどんなに丁寧に言葉を尽くして書いたとしても、自分が思うような回答を得られなければ受け止めないのだろう。そういう方がいるのはわかっている。でもこんなにいるものなのだと。

 

人と空間をともにするときによく言われる、空気を読む、ということをこれだけ強いている世の中で、言葉の行間を読む、言外の言葉を察する、ということは強いられないのかなと、不思議に思ってしまう。

ただの通りすがりでちらりと見た、バックボーンも知りえない方が他人に向けられた言葉に衝撃を受けたりするほどセンシティブでもないのだが、通りすがりの私でさえ少し考えればわかりそうな言葉が相手に伝わらない、という事実が、指に刺さった小さな棘のように、ちくちく痛い。

言わなきゃわからない、確かにそうだ。私も、におわせるだけで行動しないのは嫌いなほうだ。やりたいならやればいい。人の様子を伺ってやりたいことを躊躇うようなことはしたくない。気持ち悪いことこの上ない。
でもこの悲しみを察して欲しい、この喜びを表す言葉がない、のような感情の度合いを相手にゆだねる言葉は、もう死語なのかもしれないな、と。

悲しみがあったときに悲しいでしょ、楽しいときに楽しいでしょ、って他人が強いるのってなんなんだろうなと。強い悲しみや喜びの感情の情報が流れてくるたびに思う。

金メダルを取ってうれしいでしょ、なんて、他人が思えばそうかもしれないけれど、授与者がそう思っていないかもしれない。
御身内を亡くされて悲しいでしょう、なんて、そうじゃない理由もあるかもしれないじゃないか。
そのどちらの理由も、他人が勝手に感情の種類を決めていいのか?踏み入っていいのか?その人の感情はその人のものなのではないのか?聞いて欲しいならともかく、こちらから聞くというのも無粋極まりないのではないか?

というようなことを延々と感じるここ数週間でした。

 

私は、悲しみを噛みしめるのがへたくそなんだと思う。いつまでたってもぐじぐじと考え続けてしまう。
去年今年と身内や親しい人が立て続けに亡くなった。心に留めていた画面の向こうの方が亡くなったと知った。
どうにか気持ちを立て直そうとして、へらへらしたりしてるけれど、突然何もかも嫌になって誰にも会いたくなくて引きこもってしまう。元気になってバカやって、そしてまた一人になって考える。
そうやって外と内を交互に行き来しながら、忘れる、という時間の経過を頼りに、生きていくしかないんですよね…。